作成者、小松哲史のプロフィール  

 

太平洋戦争のさなかに東京で生まれました。アッツ島で玉砕するなど日本軍の敗色が濃くなり、赤ん坊の私は、父、母とともに岩手県盛岡市に疎開。住まいは盛岡城址公園の近くで、そこに米軍機の爆弾が落とされましたが、幸い不発弾で命をとりとめたそうです。「ご飯にサツマイモを混ぜたり、食べ物がなくていがみ合ったりで戦争はこりごり」という母の言葉を覚えています。戦後、父は化学会社の社員となり、川崎にある研究所でペニシリン薬の開発に取り組み、その後、丸の内本社の勤務となり、私も妹、弟と一緒に、東京、目黒の区立小学校、中学校に移りました。勉強はほぼほぼできましたが、運動能力は低く、控えめな性格なので友達もおらず、まことに地味な学校生活でした。しかし、それも都立高校に入学後、放送研究会に入り部活動を行うようになって変わります。校内放送や放送劇、音楽コンサート(LPレコードを聞く鑑賞会)などで、男女の別なく自由におしゃべりし、力を合わせ何かをつくりあげる楽しさを知りました。

早稲田大学に入学し、地域で子供会などのボランティアを行うセツルメントというサークルに入り、授業そっちのけで精をだしました。当時の早稲田は学園闘争のメッカといわれ、私が入学したころは、授業料値上げ反対、ベトナム反戦、三里塚・成田空港建設反対などの闘争がt次々に起こり、ヘルメットやゲバ棒がキャンパスに入り乱れました。私自身もそうした社会問題に強い関心を持ちましたが、もっと地道な運動が必要ではないかと考え、地域で子どもたちと接する中で、教育の重要性を感じ、卒業後は、教員となる道を選びました。赴任先は、埼玉県北足立郡の足立中学(現在の志木市立志木中学)です。この学校には若手教員が多く、彼らとともに、夏目漱石の「坊ちゃん」世界さながらの青春を経験しました。校長と激しくやり合い、日教組活動に参加し学校からただ一人ストライキに参加したり、問題児の生徒と取っ組み合いをしたり(なぐられたのは私ですが)、日比谷公園の反戦派の集会に参加し機動隊に逮捕されたり(教員仲間や父母の教育委員会への働きかけがあり、首はつながりました)などやりたい放題でした。他校の教員仲間と「教育を考え直す会」をつくり、卒業生と学習サークル(のちに虫けら・グループに発展)をつくったのもこの頃です。

 最初の結婚は、セツルメントで知り合ったまちこさんです。私が教員になった二年後に、大和町(現在の和光市)の養護学校の教員となり結婚しました。まちこさんはウーマンリブ(女性解放)の考えをもっており「家事は半々」「暴力を振るったら即、離婚」と最初からイコール・パートナー宣言をしていました。

 志木市の南に朝霞市があり、自衛隊の朝霞駐屯地と米軍のキャンプがありました。当時はベトナム戦争の真っ最中で、ここに負傷兵のための野戦病院がつくられました。基地の南は東京、練馬区の大泉学園町ですが、住民のWさん(当時、東大助教授)たちが、「ベトナム戦争に反対する大泉市民の集い」を結成し、基地のフェンスごしに米兵に反戦を呼びかけ、私たち夫婦もこれに参加しました。基地の金網越しに、ハンドマイクをにぎり米兵に反戦をよびかけWさんの姿を見て、やる気になればたった一人でも行動を起こせるのだなと強く思いました。

 さまざまな参加者のなかに、俳優のAさん(のちに時代劇で木枯紋次郎を演じ有名になりましたが、当時は無名)がいました、俳優座の研究生としてアメリカに演劇留学し、アメリカの激しい反戦運動と黒人運動に出会い、自分も何かしなければと帰国後、市民の会の活動に加わりました。私たち夫婦は、英語がしゃべれるAさんとともに、基地の内外に住む米兵とりわけ黒人兵と反戦や人種差別について意見を交換しました。白人であろうと黒人であろうと、物おじせずにしゃべるAさんの姿を見て、国境を超えるということは、こういうことなのだなと実感しました。そのAさんが「人種のるつぼであるアメリカを見ておくべきだ。日本では見られない生々しい戦いと爆発するエネルギーがそこにある」と語ってくれたことを今でも覚えています。さらに当時、仲良くなったアメリカ人反戦活動家のヤンとアニーのことも忘れられません。長髪で赤いバンダナを頭にまく二人は「ヒッピー白人夫婦」でしたが、夫婦でジャテック(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)に加わり、日本人有志とともに軍隊を無断除隊した反戦米兵を逃亡させていました。アニーはかわいらしいルックスの女性でしたが、「ミセス」(夫人)と呼ばれるとカンカンに怒り、「シスター(姉妹)」と呼んでほしいと要求しました。たった一人で米軍の沖縄嘉手納基地正門で銃をもつMPの前でビラまきをする勇気の持ち主でした。ヤンとアニーは夫婦でしたが、互いに相手を束縛することなく、自立して対等に生きていました。私たちはこのカップルに共感し、英語ができたらもっとわかり合えるのではと痛感しました。こうして英語が話せるようになりたい、外国、とりわけアメリカに行ってみたいという気持ちが二人の間で強くなってきました。当時、作家でべ平連(ベトナムに平和を市民連合)代表である小田実が書いた『何でも見てやろう』という世界放浪記がベストセラーになっていました。また全共闘や新左翼などの運動が、過激化するなかで、連合赤軍事件のような「同志殺し」が起こり、時代の閉塞感が強まっていたのも、理由のひとつかもしれません。そして私が30歳になったとき「世界に飛び出すには子どものいない今しかない」という思いが強くなりました。教えることは大好きでしたが、私は6年間、まちこさんは4年間の教員生活に別れを告げ、二人でアメリカ・カナダへの〝遊学旅行〟を決意しました。

 とはいえ、アメリカに知り合いがいるわけではありません。まちこさんの母親が属している「婦人民主クラブ」の知人から、アメリカのロスアンゼルスに住む佐藤さん夫妻(夫はガーデナー・庭師)とカナダのバンクーバーに住む那須さん夫妻(夫は漁師)の日系二世の方、それにサンフランシスコ在住の日本人画家・八島光(みつ)さんを紹介してもらいました。 光さんは戦前、夫の太郎さんとともに日本プロレタリア連盟(コップ)で左翼活動を行い、特高に何度も逮捕され、子供を流産しています。太郎さんがあやうく徴兵されそうになり、二人はアメリカに逃れ絵の勉強を続けました。その後太郎さんは、絵本作家として名をあげますが、夫に干渉されることなく自分の絵を描きたいという光さんは、夫の住むロサンゼルスから離れサンフランシスコで一人暮らしをはじめました。私たちが会ったときは、70代の明るく元気な絵描きおばさんでした。サンフランシスコのジャパンタウン(日本人街)には、日本人一世を世話する「気持会」というボランティア組織が二世や三世の手でつくられていますが、光さんはここで「絵の会」を開き、多くの一世のお年寄りが参加していました。私たちも絵の会に参加し、仲良くなった一世の方々から、見合い写真一枚をもって渡米した話や、英語がしゃべれないなかお店を開いた話などを伺いました。光さんの絵は色をつけないモノクロの繊細なデッサンで、派手ではありませんが、両足でしっかりと大地に立つ女性の強さを思わせ、私もまちこさんも大好きでした。

 観光ビザのため、滞在許可は最大でも6カ月しか降りません。したがって半年近くになると国境を越えて、アメリカからカナダあるいはその逆に移動します。カナダに再び入り、日系人のキャナリー(魚工場)で半年あまり働きました。私は鮭をさばく仕事、まちこさんは卵のイクラを処理する仕事です。もちろん労働ビザはないので、入国管理局の手入れを恐れながらの不法労働です。当時は1ドル=360円の時代で、時給は3ドル。半年、二人で働くと結構な稼ぎになり、中古車を買い、それで自由に移動ができるようになりました。ほぼ二年間、アメリカとカナダに滞在し、じつにさまざまな人と出会いました。

 カリフォルニア州のサンフランシスコからベイブリッジを渡るとバークレイとオークランドの街があります。バークレイにはカリフォルニア大学のキャンパスがあり、60年代から70年代にかけて反戦運動のメッカであり、ヒッピー文化の発祥地でもありました。大学の掲示板で「同居人求む」の張り紙を見つけ、オークランドにある三階だてのアパートを二人で訪ねると、出て来たのはフアンというプエルトリコ人。いきなり「Do you smoke?」と聞いてきました。当時、タバコを吸っていた私は、「Yes,I do」と答えました。フアンはにやりと笑うと、私たちの同居をすぐに認めました。フアンは定職がなく、なんで暮らしているかわかりませんでしたが、週一回、居間でパーティを開いていました。ある日、誘われて参加してみると、人々が丸い輪になってマリファナを回し飲みしているではありませんか。フアンはマリファナの売人だったのです。フアンが最初に尋ねた「smoke」の意味は、「ドラッグ(麻薬)をやるかどうか?」ということだったのです。半年後、ビザが切れそうになったので、カナダへ出て、戻ってみるとフアンがいません。階下に住む黒人のバリーに尋ねてみると、「麻薬売買の容疑でつかまり、現在は刑務所だ」と言います。その刑務所は、重罪犯がいることで有名で、私たちは、こわごわと面会に行きました。フアンは元気に「No problem!」と答えてくれました。しかし数カ月後、独房で首をつって亡くなりました。プエルトリコはキューバの東にある小さな島で、米西戦争でアメリカ領となり、住民のほとんどは貧しい暮らしを余儀なくされています。フアンも希望をもって本土にきたのでしょうが、悲しい結末となってしまいました。

アイルランド系移民を先祖にもつ白人のジェームスは学生時代にSDS (アメリカの新左翼系全学連)で活動し、卒業後は労働者になるとサンフランシスコの交通局に入り、当時はサンフランシスコ名物のケーブルカーの車掌をしていました。移民局への抗議行動では「責任者出てこい」と叫ぶ強面の闘士でしたが、ふだんはやさしく無料でケーブルカーに乗せてもらったことがあります。

  アメリカの黒人運動は、非暴力の公民権運動がキング牧師の暗殺とともに曲がり角に立っていました。このとき注目をあびたのが、銃をもって権力から自分たちを守る「武装自衛」路線を掲げたブラックパンサー・パーティ(黒豹党)です。当然、FBI(連邦警察)ににらまれ、たびたび激しい銃撃戦を繰り返し、黒豹党首のヒューイ・ニュートンはキューバに亡命しました。こうしたなか、議長のボビー・シールは生き残りのため、貧しい黒人たちに無料の医療、食事、就職、住宅、教育プログラムを提供すコミュニティ活動路線を打ち出しました。この新方針について私は議長にインタビューを行い、その記事を日本の雑誌に掲載することができました。一方まちこさんは黒豹党のコミュニティ・キッチンに日参し無料プログラムの食事づくりに励みました。

 カナダの白人女性のパディは若い頃、日本へ留学し、そこで日本人のTさんと知り合い結婚し、帰国後は西海岸の大学の日本史の教授となりました。パディさんは三人姉妹の長女で、次女はフリー・スクールの教師、三女は新左翼の活動家と、思想と活動を異にしていましたが仲のよい姉妹でした。パディさんの研究対象は明治の紡績女工、高群逸枝(日本の女性史学のパイオニア)、日本の台湾統治など多岐にわたっており、常に庶民や女性目線に立つ研究者でした。社会主義者でアナーキストのパディさんはTさんと離婚後は娘のマイアとともにキューバを何回も訪れる行動派でもありました。

 およそ二年間のアメリカ・カナダの滞在生活を終え、バックパックを担いで東海岸のニューヨークから大西洋を越えドイツに渡り、フランス、スペインと南下しジブラルタル海峡を船でアフリカへと渡りました。モロッコを経て、アルジェリアからサハラ砂漠を越えようとしましたが、果たせず、東南アジアを経て世界一周を終えました。

 さて帰国後、何で食っていくかです。かつて教師だったこともあり、横浜で小さな学習塾を開き、中学生に英語と数学を教えました。ここでは通信簿の五段階評価で、4を5にするよりも、12にするほうが倍以上の根気と努力がいることなどの経験をしました。この塾は十年余り続きましたが、途中でまちこさんが横浜市の養護学校の教師になるなどの事情もあり、40代の 私は英語翻訳の仕事のかたわら英字新聞社「パン・アラブ通信社」につとめるようになりました。この新聞社は新宿の歌舞伎町にあり、日本イスラム教団(代表・二木秀雄)がスポンサーで、ちょっと怪し気なところもあり、日本人スタッフ以外にイラク人、リビア人、インドネシア人などが出入りし、「アッサラーム・アレイコム(こんにちは)」というアラビア語のあいさつを交わす、異色の新聞社でした。ここでは、英米の価値観とは大きく異なる世界観を学びました。さらに書くことへの興味が強く湧いてきました。そこで、大学時代のゼミの友人であり、当時、講談社の編集者をしていた平松くんに相談すると、近々、編集プロダクションを立ち上げるので、一緒にやらないかと誘われました。発足当初は、企業の広報誌、週刊誌、月刊誌の雑記事など何でもやりました。やがて仕事先も講談社だけでなく週刊文春(文芸春秋社)や住宅情報(リクルート)などへと広がりました。思い出深いのは、講談社の大判ヴィジュアル週刊誌、『週刊地球旅行』『世界の美術館』『日本の街道』『20世紀シネマ館』などにかかわったことです。実際の編集はTオフィスで、毎週出してほぼ二年間、全100巻で完結します。週刊誌の世界は過酷で締め切り前の3日間はほぼ徹夜となります。T女史の陣頭指揮の下、二十人ほどの若いスタッフがシャカリキで取り組み、私もその中で編集やライターをつとめました。このシリーズは大ヒットしましたが、制作現場は大変で、校了前の原稿にTさん、S局長、Gさん(その後、美術館めぐりなどタレントとしてテレビで活躍)の三人から赤字が入ります。句読点ひとつもゆるがせにしない細かい直しに、ため息が出ましたが、ずいぶんと文章修行になったと思います。

 フリーの仕事は不安定です。収入を安定させるためにゴーストライターの仕事もやりました。有名人や会社の社長は忙しかったり、文章が苦手だったりしてなかなか書けません。そこで本人から話を聞き、ゴーストライターが文章化して仕上げます。もちろんゴーストライターの名前は表に出ません。三十冊あまりをつくり、だいたいが売れませんでしたが、一冊だけ爆発的に売れた本があります。中国人のKさんと組んだ、日本人と中国人の違いをおもしろおかしく比べるシリーズでした。「日本人は、真実はひとつしかないとくそマジメに信ずるが、中国人は真実は二つ以上あるとイイカゲンにうそぶく」といった具合です。

 最初の作がヒットし、以降シリーズ化して十数冊以上を出しました。Kさんは日中ビジネスの仲介をする仕事もしており、日本人をひきつれ中国へ商談旅行に赴きます。Kさんと仲良くなった私も加わったことがあります。中国現地では食事会に要人(市長や副市長、局長など)を招き、顔をつなぎます。「カンペー(乾杯)」と一人が盃をあげると、全員が盃を飲み干さなければなりません。それが繰り返され果てしなく続きます。しまいには、はきそうになりますが、途中で降りることは許されません。この接待は一種のワイロですが、当時はなかば公認されていました。要人のほとんどは共産党幹部ですから、堕落した中国の裏側を垣間見ることができました。

 こうして仕事や収入は、それなりに安定してきましたが、次第に自分の名前で本を出したくなりました。しかし私には知名度や実績がありません。まず英語を生かして翻訳書を出すことにしました。『ゴルバチョフへの手紙』(ロイド・フィシェル著)『アメリカ暮らしの常識・非常識』(ギャリー・アルセン著)をジャパンタイムズ社から出し、この経験をいかして『サバイバル英語』という実用書を講談社から出しました。アメリカ人の友人、S氏と共著ですが、はじめて著者名に自分の名前が載りました。それからは順調で、『トリプルAカンパニー』『MBAを取って年収2倍を目指せ』(プレジデント社)、『会社が再び輝く時』(ダイヤモンド社)などのビジネスものを出すことができました。そして60代になって、はじめて時代小説『主を七人替え候』(幻冬舎)を書き、翌年『人使いの極意―多胡辰敬、藤堂高虎、黒田官兵衛の至言』(新潮新書)を刊行。これで作家の末席に名をつらねることができました。

 

 終わりに、私の二人のパートナーについて触れておきましょう。私は二度、結婚しています。すでに述べたように最初の妻はまちこさんです。二人の子どもを授かり結婚生活は26年に及びました。しかし彼女が50歳のときに厄災が訪れます。筋委縮側索硬化症(ASL)という難病で、三年間の闘病生活ののちに帰らぬ人となりました。そのとき二人の子どもは、兄は中113歳)、妹は小410歳)でした。途方にくれましたが、横浜に住むまちこさんの母親が来てくれて助けてくれました。

私はまちこさんに命を救われています。アメリカから帰る際に、世界一周をしようと二人でアフリカに渡ったときのことです。サハラ砂漠を縦断しようと、出稼ぎでドイツに行き、帰省しようというガーナ人一行の車にガソリン代を払うという条件で同乗させてもらいました。普通の乗用車で、これで砂漠を超えられるかとも思いましたが、その不安は的中し、初日の夜に早くも砂の中に突っ込み、動けなくなってしまいました。皆で車を引き上げましたが、その直後に持病である尿路結石が起こり、私の体に激痛が走りました。 背を曲げて苦しむ私をしり目に、ガーナ人一行は、しばらく我慢すればなんとかなるだろうと縦断を続けるつもりです。それを見て、まちこさんが猛然と怒りました。このまま進むのなら、夫は死ぬかもしれない。戻って病院へ行ってほしいと、必死の形相で英語で叫んだのです。ものすごい剣幕に、ガーナ人たちは渋々、戻ることに同意しました。そして病院に運ばれ、数日後に結石が小便とともに排出されました。砂漠で水を飲むことが極端に少なくなっていたことで、胆石が起こったのでしょうが、戻らなければどうなっていたかわかりません。

 それから15年、二人の子供も独立し、68歳になった私は再婚しました。相手は高校時代の放送研究会の仲間、まさよさんです。彼女も娘さん一人、息子さん一人がいましたが離婚していました。このまさよさんにも私は命を救われています。再婚から7年後、私は膀胱がんになります。浸潤性できわめて危険だと言われ、膀胱の全摘出手術を勧められましたが、年齢を考え全摘は行わず、病院を変えて温存療法である放射線と抗がん剤治療を受けました。この間、入院と通院治療で約三ヵ月にわたって、ほとんど毎日、往復2時間、まさよさんが車を運転し川崎の病院まで通ってくれました。このまさよさんのヘルプがなければ、私の今はないといえるでしょう。(本編の挿絵と写真は、すべてまさよさんによるものです)

 ちょっと長いプロフィールになってしまいましたが、お世話になった方々にもできるだけふれてみました。日本人、アメリカ人、カナダ人、中国人、黒人、プエルトリコ人(ここには書きませんでしたが韓国人、朝鮮系の友人もいます)などさまざまです。そうした触れ合いの中から、今回の国境をこえる作品『ウクライナの花はどこへ行った?』が生まれたのかもしれません。