戦火を生きのびて――沖縄からフィリピンへ移民した母と娘の手記

 

中学教師時代の教え子であるフミコさん(感想#14)から、「戦火を生きのびて――フィリピン移民の子の手記」という小冊子が送られてきました。

フミコさんの結婚相手の母親である山城京子さん(仮名)は60代のとき、舌がんの治療で入院。死を覚悟した京子さんは、舌に針を刺すつらい治療の合間に、子どもや孫に残すため、少女の頃のフィリピンでの戦争体験を綴りました。がん治療が効果を発揮し、京子さんは88歳まで生きましたが、遺品の中から京子さんの病院での手記が見つかりました。それを読んだフミコさんは思わず息をのみます。そこには、沖縄からフィリピンに移民として渡り、敗戦の中で、家族や親戚一同で、力を合わせ、必死で生き抜いた姿が書かれていました。

「この記録をなんとしても遺したい」と思ったフミコさんは、一周忌に京子さんが残した記録を小冊子にして親戚、知人に配布しました。そしてこのほど、フミコさんから私の元に送られてきた次第です。
 京子さんの母親・ツルさんは、戦争がはじまる前に、親戚とともに、沖縄からフィリピン南部のダバオに移住しました。沖縄ではユタ(民間の霊媒師、沖縄では医者半分、ユタ半分といわれるほど尊敬された)であったツルさんは、ダバオでも、赤ん坊を取りあげたり薬草を見分けたりなど活発に働いたそうです。しかし、真珠湾攻撃から一年もたたないうちに戦局は悪化。日本人学校に通っていた京子さんは卒業と同時に病院へ駆り出され、母親と離れて暮らすようになります。そしてついに米軍がフィリピンに迫ってきました。

京子さんの手記は次のように続きます。

 

「空襲は酷くなるばかり。それから半年ぐらいたつた頃、真夜中に空襲がありました。ダバオの町に油を撒き、その上に焼夷弾を落とし、町はたちまち火の海になりました。翌朝まで燃え続き、夕方ごろには、敵軍上陸という情報が流れてきました。右往左往の大騒ぎとなりました。私が働いている病院へも、歩ける者は皆、安全な田舎の方へ避難するよう命令が出ました。私たちはそれぞれの着替えなどの荷物とある程度の医薬品を持ち、患者さんを連れて燃え盛る町を逃れました。すると、患者の白衣が目立つのか、敵機が低空飛行で撃ってくるのです。死ぬ思いを何度か繰り返して夜通し歩きミンタル耕地に着きました。おにぎりを食べ、そのまま野宿し、とても患者の治療どころではありません。病院の隊はミタル、ゴマラン、カリナンと移動し、そこで病院船が入港し、ほとんどの患者さんを病院船に乗せることができました。でも、後から後から空襲で負傷した患者さんがくるので、病室はいつも満員でした。

そのころ母たちは友人の親戚を頼り、バンカス耕地に避難していました。姉二人は軍需部、私は病院と、家族別れ別れの状態です。ゴマラン耕地まで避難した時、私は家族に会いたい一心で軍医長にお願いして家に帰してもらいました。丁度その時、母や姉たちは、軍の命令でタモガンのジャングルに避難するために 一時帰宅していました。そんなことは知らずに私は家にたどりつき、偶然にも家族全部が揃いました。

 私たち家族は、タモガン草原で水牛につんだ荷物を受けとり、しばらく行くと、以前預かった赤ん坊の男親が追いついて来ました。自分は現地入隊することになったが、赤ん坊の面倒を見てくれる人がいない。今一度、預かってくれないかと母・ツルに頼んできました。この赤ん坊は日本の輸送船が沈没した際に、母親が赤ちゃんだけでも助けたいと、樽に入れ、海を漂流している際に海軍さんに助けられ、子育て経験が豊かな私の母に預けられました。ミルクも重湯も不足するなかで、母は大変な思いをして育てました。その後、赤ん坊は生存していた男親に引き取られていきましたが、ふたたび現れて、預かってくれないかというのです。おそらく母のなかには、この子に対する愛情が強く残っていたのでしょう、親戚の子でも引き取らないこのご時世に、母はこの赤ん坊を引き受けたのです。ジャングルの中では、昼間火が使えないので、生水や冷たいものしか飲ませることができません。もともと体の弱い子で、たちまちお腹をこわしてしまいます。山の中は昼間も太陽が照らないので、汚れたおしめを洗い、樹の茂っていない川の中の石の上に干し、敵の飛行機がくると急いで取りに行くのです。取り込みが遅れると、兵隊におしめを取り上げられ、何度もおしめを捨てられました。かわりのおしめは、私たちの着る物でつくります。ほんらいなら兵隊を恨むのが筋ですが、私たちは、罪はないのですが預かつた赤ん坊を恨みました。移動するときは、母は赤ん坊を背負い、おしめだけを持ちます。母の荷物は姉たちが分けて持っていくのです。これを見て、一緒に避難している母の従兄で元近衛軍曹だったおじさんたち二人が、母に向かい、にこにこ笑いながら、「ツルさんはえらい。お前さんには鉄砲の弾も当たらない。弾のほうでよけてくれる」 とほめるのでした。でも、ジャングルをかなり入ったところで、その赤ん坊は死にました。死んだものは道端にそのまま捨てられるのですが、母は赤ん坊の親が通るかもしれないと、わざわざ墓標を立てて埋葬しました。三日間、朝早く手を合わせていました。ジャングルの中ではあれ以上のことをしてあげることはできないと私は思いました。

艦砲射撃、迫撃砲、空襲などがひどくなる一方で、私たちは奥地へ奥地へと逃げました。道と言っても細いけもの道で、そこを何千、何万と人や馬や水牛が通るので道幅が広が ります。爆弾が落ちて大きな穴が開き、毎日降る雨でぬかるんで、足を上げると岨虫などが一緒についてくるのでした。兵隊や馬や水牛が死んでいる上をまたぎ、またぎ通らないと、前に進むことができません。右を見ても左を見ても、千里の谷底ですから、死体を越えて歩くしか道はないのです。天も神様も、皆アメリカに味方していると思うほど、毎日毎日、雨ばかりでした。食べられそうな草を探しているときに大和芋によく似た芋をひろい、あく抜きして食べたところ、五分もしないうちに、家じゅうの者がもどして、一日中眠り続けましたが、全員が死なずにすみました。

ジャングルのなかでは、いつ何が起こるかわかりません。夜、蚊帳のなかで寝ているときに、食糧でも奪おうと思ったのでしょうか、兵隊さん(どこの兵隊かを京子さんは書いていないが、兵隊さん、とさん付けで呼んだのは日本兵だけだったという)が手りゅう弾を投げこんできたことがあります。私たちは、必死に手りゅう弾を遠くへ蹴り飛ばしました。すると、その手りゅう弾は不発でした。なんという運のよさでしょう。翌朝、隣の小屋を見ると、手りゅう弾が爆発して、隣の人々は血まみれでした。

あたりが暗くなったので、母はリュックの中の食糧を出して、見えないように、その上にすわっているように家族に言いました。そこへ兵隊さんがきて、食糧を出せと迫つたのでした。姉は気が強い人で、「兵隊さんは国を出るとき、すでに命はないものと思っていたのでしょう、邦人のものを奪ってどうする」と言いました。すると兵隊は「我々は兵隊ではない。強盗だ。食べ物をよこせ」と怒鳴り続けましたが、私たちは知らんふりを続けました。

昼間、火を使うことができないので、夜のうちに米一合に水を五倍ぐらい入れて,おかゆを煮ているのを兵隊さんが見つけて、「あるではないか。」と持っていこうとする時、 母が「中味はあげるからお釜を返して!」と兵隊と奪い合いになり、鉄砲で肩や腕などひどく殴られて紫色に腫れてしまいました。この時の傷が終戦後、日本に帰っても痛み、鍼やマッサージに通うことの原因になったのです。

「これ以上、奥地へ行っても仕方がない」とおじさん達が言い、山を降りることになりました。 山を降りる途中の道には、たくさんの兵隊さんが道端に横たわって、生きているのに顔中を赤アリや黒アリ、ハエなどが 目や鼻の中を出たり入ったりしています。手で払うことすらできないのです。弱弱しい声で 「お母さん」と呼んでいる兵隊さんもいました。 こうした兵隊さんはまじめな人で、私たちを襲った強盗のようなことはしない兵隊さんだと思いました。

それでも、元気な兵隊さんが、道端に横たわる弱った兵隊さんが自分の靴より上等な靴を履いていると、それと取り替えていく姿も見ました。人間はどん底に落ちないとほんとうの心はわかりません。

屍は二倍、三倍に膨れていろいろな虫がたかり悪臭がただよっています。そういうところでは母は決まって急ぎ足になるので転んでしまうのでした。親に捨てられたのか 「おばさん、一 緒に連れていって」と泣いている子どもが何人もいました。でも何もしてあげられない。自分たちも死ぬか生きるかの瀬戸際で、他人のことは放つておくしか、やりようがないのです。

ジャングルの中の生き地獄 、それはダバオ川を渡る時でした。その日の夜、大雨になりました。おそらく二、三日は水が引かない。そうなると食糧がなくなり、家族全員が餓死する。だから今日中に川を渡らねばとおじさんが言います。何人も流されていくのが見えます。でもやめるわけにはいきません。

 絶対に足を高く上げずに川底をなでるように歩きます。肩まで水につかり手を取り合って無事に川を渡り切りました。荷物や小さい弟や妹は、二人のおじさんが肩車で川を往復し、家族全員が無事に渡ることができました。

その夜、おじさんが予告した通り大雨になり、川はみるみる増水して大洪水になりました。私たち家族は大変な危機から救われたのです。それから、山の絶壁や川を渡り、一日も早く食糧のありそうな所をめざしました。オピヤン街道を夢中で歩き、ベルダ耕地につきました。現地のフィリピン人が耕したのかトウモロコシ畑に着いた時は どんなにか嬉しかつたことで しょう。でも トウモロコシは、すでに先に避難した人々が全て採った後でした。稲が実るころで、稲穂を刈取り、鉄兜に入れて精米して当座の食いつなぎにしました。川の向こうの元邦人の芋畑にいって芋を掘り出します。米兵やフィリピン兵が巡回 してくるので、見つからないように四つん這いで進み、死にもの狂いで這ったまま、袋を引いて戻ってくるのです。途中、どうしても川を渡らなければなりません。以前、決死の覚悟で渡ったあのダバオ川の下流です。

前に比べれば、川幅も狭く流れもゆるやかですが、掘ってきた芋を運ばねばなりません。おじさんが木を拾って、筏をつくり、つる草で縄を編んで、向こう岸とこちら岸に渡し、筏に荷をのせて縄を手繰り寄せるとうまい具合に川を渡ることができました。後にこの筏は兵隊さんにとられてしまいました。

この頃にはすでに終戦になっていて、アメリカの飛行機が、早くジヤングルから出てくるようにという宣伝ビラを撒いていました。終戦になったのか半信半疑で、アメリカを信じる気持ちにもなれません。でも、まわりの様子があまりにも静かなので、捕虜になってもいい覚悟で、降伏してゆきました。

米軍の収容所に入れられましたが、あまりにも違う待遇を受けて、驚きました。一人一人に折り畳みのベッドが提供されたのです。日本軍とは大違いで、やはりアメリカだと思いました。神の国も負けるのは当然とつくづく思いました。二万人近い邦人のうち、家族全員無事にジャングルから出てきたのは、二家族だけでした。私たち家族は、町で暮らしていたので、ジャングルでは生きてはいけないと皆思っていたらしく、とても驚かれました。

無事に生き延びられたのは、やはり小さい命を守った母の誠意とおじさん二人のおかげです。おじさん達はいつもシャベルとツルハシを持って歩いていました。重いから捨てたらと言うと、怖い顔して「バカ! お前たちのうち誰かが死んだら、道端に捨てていって、通る人に唾でもかけられるようなことにならないように、ちゃんと埋めてやるために、これがいる」と言いました。おじさん達は、いつも列の一番後ろを歩いてくれました。おじさん達のおかげで収容所までたどり着くことができたのです .この御恩は決して忘れることはできません お母さん、おじさん、ありがとうございます」(以下、手記は日本帰国まで続きますが、長くなるので省略しました)

 

フミコさんによれば、ツルさんは99歳まで生きたそうです。生涯で3回結婚し、11人の子供を産み、「家族全員、死なせないで引き揚げたのは、うちだけだよ」「日本兵が一番怖かったよ」と話してくれたそうです。日本兵に銃剣で傷つけられた背中を見せてくれたことがあり、右肩から左脇に二本、左肩から右脇に一本、大きな傷跡があったそうです。

たいへんな自信家で、娘たちに「おかあさんのようになりなさい」と繰り返し言っていたそうです。大勢の子供と孫たち(総勢100人くらい)の名前は、すべて呼び捨てでしたが、フミコさんには、「わたしは子どもをとりあげて、病気やケガを直したけれど資格がない。その点、看護士のフミコさんはちゃんと資格がある」と、さんづけで呼んでくれたそうです。ツルさんに、終戦50周年のとき、NHKの記者が取材にきました。「天皇は嫌いだよ。私たちに何もしてくれなかった」とツルさんは語ったそうですが、その言葉は放映されませんでした。

 この手記を書いた京子さんは、ツルさんの6番目の子どもで、母親とは対照的に、おっとりと穏やかな人だったそうです。きっと、ツルさんとともに数々の修羅場を乗り越え、たどりついた確かな境地だったのでしょう。

手記の中にかかれているように、京子さんにとってはつらい思い出ばかりのフィリピンでしたが、戦後、日本本土に帰った京子さんは、懸命に働き、子どもを育て、生活が落ち着いてから、徴用された病院の将校さんなど生き残った方々とダバオ会の一員として、何度かフィリピンを訪れていたそうです。

 

「おそらく義母にとって、辛くても、悲しくても、それはそれで生きた証を共にする大切な人々がいる青春の地だったのでしょう」とフミコさんは語っています。